その日僕が出勤すると、大きく張る客が大敗したばかりで
店にかなりの現金があった。
1000万を超えて1300万ほどはあっただろうか。
その客が帰ってしまった後は、
それほど大きな数字は動きそうに無かったから
僕はオーナーに電話を入れて、金を引き取りに来てもらうことにした。
店に置いておく現金があまりに多額なのはリスクが大きいからだ。
万が一摘発されてしまえば、店にある現金は押収、没収されてしまう。
びた一文、戻ってくることはない。
摘発が無くても、強盗などの被害に遭う可能性もある。
開店時に店に用意しておく現金は5,600万ほどだったから
それだけ残して、残りは分けておくのが常套手段なのだ。
仮に客がそれ以上の大勝をして現金が不足したとしても、
換金する前に現金の用意ができれば問題ないし
オーナーが渋谷に構えていた事務所からであれば
どんなに混んでいたとしても1時間もあれば着く。
だから僕は少なくとも500万は引き下げてもらうつもりで
オーナーの携帯に電話をいれたのだ。
電話に出たオーナーに僕がその旨を告げると
「おう、そうか。でも今まだ出先なんよ・・
そやけん、誰か持ってこれる奴おらんか?店に今誰がおる?」
オーナーはそう言った。
引継ぎの時間だから、今から上がる黒服が数名いる。
僕がその数名の名前を挙げると、オーナーは即座に
「カワムラおるんやったらカワムラに持ってこさせよか」
そう言った。
責任者クラスであれば事務所の場所は知っていたから
持って行かせること自体には特に問題はない。
僕はカワムラに札束が入った封筒を渡し
オーナーからの指示を伝えた。
カワムラは特に緊張する様子も無く
「了解っす。じゃ失礼しますー」
と言って店を出て行き、僕は自分の仕事に戻った。
人手が足りずにその日もてんてこ舞いだったのだ。
そして数時間が経過した頃、オーナーから電話が入った。
僕が電話を取ると、オーナーは開口一番言った。
「なんや、結局胴金下げんかったんか?」
「え?」
何のことを言っているのか、即座には分からなかった。
するとオーナーは不思議そうな声で
「ほんでも誰も事務所来とらん言うとるぞ」
そう言う。
反射的に嫌な予感がした。
「いや、カワムラさんとっくにこっち出てますけど」
電話の向こうで空気が変わったのが分かった。
「何時の話や!」
「引継いですぐだから4時間ほど前です」
「カワムラに電話せぇ!」
すぐに電話を切って、カワムラの携帯を鳴らすが
呼び出し音は数回鳴って留守番電話に変わった。
逃げたか、あるいは事故か。
胸の奥に不安がむくむくと頭をもたげる。
どちらにしても良い状況ではない。
数分おきに携帯を鳴らしているうちに
オーナーが店に飛んできた。
キャッシャーの人間が
「まさか持ち逃げ・・」
と呟くと、苛立ったような声で
「憶測でモノを言うな!まだ何も分からんやろうもん!」
そう言った。
あるいはそれは自分に言い聞かせていたかもしれない。
いずれにしても、連絡がつかないと真相は分からない。
僕は焦りながら、またカワムラの電話を鳴らす。
コール音が何回か鳴る。
カチャリと通話がつながる音がした。
「もしもし?カワムラさん?」
「・・・・はい」
電話の向こうの声は、やけにか細く
カワムラの様子が尋常ではないことを示していた。
オーナーが僕の携帯をひったくるようにして取り、カワムラに話す。
「どげんしたん?」
さっきまでの声とはずいぶん違って優しげな声だな、
僕はふと、そう思った。
それからオーナーの声はさらに小さくなり、
問いかけるような、口説くような響きに変わった。
「お前このままトんだって行くとこあるんか?なかろ?」
「とにかくお前一回戻って来い、な?」
そして電話を切ったオーナーは僕にこう尋ねた。
「Nってハウス知っとるか?」
「聞いたことはありますね・・」
「カワムラ、そこで金全部打ち込んじまったとさ」
その店の名前は確かに聞いたことがあった。
それもつい最近の話だ。
何でその名前が出てきたんだっけな・・・
記憶を辿り、僕は不意に思い起こした。
「あ、ルミちゃんいる店じゃなかったかな」
「ルミ?誰やそれ」
「前にここで働いてたウェイトレスです」
その説明はオーナーにはさほど意味を持たなかったようだったが
僕の頭の中では、その時には既にあるストーリーができていた。
たぶん、カワムラは自分の金をいくらかは持っていたはずだ。
20万か、30万か・・独り者だからそれくらいは持っていただろう。
そこへ500万という大金を手にする。
もちろん自分の金ではない。預かっただけの金だ。
けれど、その札束の厚みは、カワムラを妙に強気にする。
金というのは持っているだけで人を変える魔力があるのだ。
「ちょっと勝負していこうかな・・」
そんな気持ちになったカワムラはどこの店に行こうかと考える。
そしてどうせならあの子にいいカッコをしたいと思い始める。
以前思いを寄せながらも、相手にされなかったあの子に。
彼女が働いている店は知っている。
彼女が出勤している時間帯であることも知っている。
彼女の店に行き、奥の一番レートが高い店に向かう。
ホールで働く彼女に、軽く挨拶をする。
彼女はカワムラが奥の高レートテーブルに座るのを見て、
少し驚いたような表情を見せる。
席に座り、100万になったズクからいくらか・・50万くらいだろうか・・を
抜き取って、横に来ている黒服に手渡す。
彼が数百万の金を持っていることを見て取った黒服の顔には緊張が走る。
飲み物のオーダーを訊きに来た彼女の顔も同様だ。
俺はこれくらいの金を任されるような男になったんだぜ・・
カワムラは心の中でそう言うが
もちろん心の中ではまだ冷静さを保っている。
今買った50万のチップのうち、20万は使わずに残そう。
少し遊んで浮いたら、そこで帰ろう。
あるいは、一時的には浮いていたかもしれない。
バカラというゲームの性質上、瞬間的に勝つことはありえない話ではない。
けれど、いつの間にかカワムラは、持っているチップをすべて溶かす。
自分の金である30万分だけでなく、預かった金に穴を開けてしまっている。
まずい、何とかして埋めなくちゃ・・
そう焦るカワムラが選ぶ解決策は
さらに勝負を続けることだったのだ。
追加を繰り返すうちに冷静さはどこかへ消える。
30万のチップを買って、そっくりそのまま張るようなこともしただろう。
僕らはそういう客を毎日見ているのだ。
カワムラが我に返ったのはいつだっただろう。
電話がかかってきた時には、事の重大さには気付いていただろう。
恐怖と、焦燥と、後悔と。
もしかしたらそのまま逃げようと思ったかもしれない。
でも、どこかでカワムラは思いとどまる。
無一文で逃げられるはずがない。
逃げたってどうにもならない。
カワムラには切符さえも買えないのだ。
だったらまだ全てを正直に告白して・・
そんな思いで電話を取ったのだろう。
僕にはカワムラの心理は手に取るように分かった。
だって、僕らは、そういう客を殺すことで凌いできているのだ。
しばらくして打ちひしがれた様子でカワムラが戻ってきた。
ドアが開き、目が合った瞬間、カワムラは目を伏せる。
何かを言おうと思ったが、僕は言葉を飲み込む。
それは、僕の仕事ではない。
モニター室にいるオーナーのところに連れて行くと
カワムラはいきなり深々と土下座をした。
「すんませんでしたっ」
オーナーは何も言わずに黙っていたが、
やがて口を開いた。
けれどその相手は、カワムラではなく、僕だった。
「すまん、ちょっと外してくれんか?」
僕は黙ってモニター室を出た。
その後に、どんな阿鼻叫喚が待っているか想像すると
少し鳥肌が立った。
500万もの大穴を開けて、ただで済むはずが無いのだ。
二時間近く経っただろうか。
モニター室の扉が開いて、誰かが出てきた。
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